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    <updated>2012-01-17T06:34:12Z</updated>
    <subtitle>narajinのブログです。
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    <title>ハードルを下げると高く飛べる</title>
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    <published>2012-01-17T06:31:23Z</published>
    <updated>2012-01-17T06:34:12Z</updated>

    <summary>アウトプットを増やすこつ。生産性をあげるこつ。ハードルを下げる。つまり自分への期待値を下げる。 いつまでたってもできないことは、自分でハード...</summary>
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        <![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="点滴なくても調子にのるな" src="http://narajin.net/archives/images/tentori20120117-top.png" width="400" height="400" class="mt-image-none" style="" /></span><p>アウトプットを増やすこつ。生産性をあげるこつ。ハードルを下げる。つまり自分への期待値を下げる。</p>

<p>いつまでたってもできないことは、自分でハードルを無意識のうちに高く設定してしまっていることが多い。その理由は、あらかじめできない設定にすることで、やらない後ろめたさから体よく逃げることができるから。しかも自分の好きなものというのは、自分に求めるレベルもいきおい高くなりがち。思い入れのあるものほどなかなか手がつかないというのはたいていこの論理にはまっている。</p>

<p>久しぶりに運動するとすぐ息が上がって体力の衰えを実感するように、最初は自分の思っているイメージどおりに頭も体も動かない。自分のイメージする自分はもっと動けるはずなのに動けない。頭のなかのハードルが高すぎたのである。</p>

<p>どうすればこの悪循環からぬけだし、やりたいことができるようになるか。目標を下げるのではなく、期待値を下げる。自分への期待値を下げれば、目標を下げずにやりたいことをやる習慣がつく。</p>

<p>期待値を下げるにはどうするか。自分がよしと思う設定の3割からはじめる。イメージしている３割ほど達成できればまずはよしとすること。</p>

<p>400字詰め原稿用紙一枚を毎日書くぞと思ってもなかなか書けない。しかし3割の120字ならばほぼTwitterの文字数になる。これだったら書けるかもという気になる。</p>

<p>Twitterで毎日120字書くと一年で4万字超。400字詰めの原稿用紙だと100枚以上。いきなり100枚書きなさいと言われても筆が固まってしまうが、結果的には長文が書けたということになる。そうして毎日書き続けるうちに120字の枠など頭から消え、字数のとらわれなしに書きたいように書けるようになっている。期待値を下げることで目標をいつのまにか達成していたのである。</p>

<p>自分の演奏をレコーディングして誰かに聞いてほしいとする。３分の曲だと最初の１分だけまずは録音してみる。30秒でもいい。これだけでいろんな発見がある。演奏中は気づかなかったおかしなところ、いいなと思うところなど。だんだんおもしろくなって、続きを練習しようという気になる。次の１分、ラストの１分と録音してさらに聞いて、ということを繰り返しているうちに１曲分の録音ができあがる。</p>

<p>それを他人に聞いてもらい、いろんなレスポンスをもらうと達成感があるし、もっと練習しようという気になる。だから30秒でもいいからまずは録ってしまうこと。</p>

<p>カントールの集合論を基礎に現代数学のパラダイスをつくろうとした数学者のヒルベルトは論文をとにかくよく書いたヒトだった。しかもミスを承知で書いていた。ほかの学者がミスを指摘してくれることを当てにしてとにかくアウトプットをつづけた。</p>

<p>青森県浪岡の画家、常田健は生涯で一枚も絵を売らなかった。すべて未完であるとして死ぬまで筆を入れ続けていた。</p>

<p>そもそも完成などありえないのだ。すべては未完に終わるのだ。宮沢賢治風にいえば「永遠の未完成これ完成」。そう割り切ってどんどん発表する。これがアウトプットの核心である。</p>

<p>シゴトで忙しいときでも一日１５分、絵を描いたり散歩したり楽器を弾くというのは期待値さえ下げればかならずできる。アウトプットもかならず生まれてくる。</p>

<p>人生も三割でよし、とすれば何でもやりたいことを15分でもやったもの勝ちということ。</p>

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    <title>すごいなきれいだな</title>
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    <published>2012-01-12T04:08:51Z</published>
    <updated>2012-01-12T04:18:53Z</updated>

    <summary>自分がすごいな、おもしろいな、きれいだな、と感じるものは、自分の心にもそのすごさ、おもしろさ、きれいさを持っている証拠。ユング風にいうと「世...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://narajin.net/">
        <![CDATA[<p>自分がすごいな、おもしろいな、きれいだな、と感じるものは、自分の心にもそのすごさ、おもしろさ、きれいさを持っている証拠。ユング風にいうと「世界に存在するものは、心のなかにも存在する」。逆にいうと「自分の心のなかに存在するものは、外界にも必ず存在する」。</p>

<p>自分がきれいだな、と思うものは誰にとってもきれいではない。自分がそのきれいを自分で創造しているのであって、そのものがきれいなのではない。</p>

<p>誰もがきれいを自分でつくっていることを誰も気づかない。</p>

<p>同じものを見ても感動するヒトもいれば、何にも感動しないヒトもいる。自分の感動は自分で作るものだから。与えたり奪ったりできないから。</p>

<p>自分の感動は自分しかつくれないけど感動は伝わる。感動が伝わるというのは感動のつくりかたが伝わること。それは時空を越えて伝わる。だから二千年前の物語にも感動できる</p>

<p>誰かのやっていることを「いいな」と思うのも、自分のなかにも同じ「いいな」があることに気づくから。</p>

<p>いいな、きれいだな、すごいな、が自分のなかにもあると気づけば有名人やお金やテレビにそれをもとめず自分だけに求めるようになる。これで他人ではなく自分のいいなに興味をもつようになる。</p>

<p>世界を変えたいなら自分を変えるだけで変わる。自分のなかのいいなが世界にも投影するから。世界を変えたいなら、他人ではなく自分のすごいな、きれいだなに感動しつづけること。</p>]]>
        
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    <title>意味という心の斧</title>
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    <published>2011-12-30T03:26:03Z</published>
    <updated>2011-12-31T02:11:48Z</updated>

    <summary>人前で「生きる意味」とか「人生の意味」といった言葉をなんのためらいもなく口にできる人などまず滅多にいないとおもう。照れくさいからなのか、それ...</summary>
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    <category term="ヴィクトール・フランクル" label="ヴィクトール・フランクル" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
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        <![CDATA[<p>人前で「生きる意味」とか「人生の意味」といった言葉をなんのためらいもなく口にできる人などまず滅多にいないとおもう。照れくさいからなのか、それともかっこ悪いからなのか。だからアンジェラ・アキの声を借りて歌ってもらうのであろうか。なぜ意味や価値や尊厳といった言葉にたいして斜に構えるのであろうか。</p>

<p>アウシュヴィッツのような限界状況にあっても、人生に意味を見いした人間のほうが生き残る確立が高いというヴィクトール・フランクルの主張は東日本大震災においても実証されるかもしれない。畢竟、生きる意味さえあれば人間はどんな限界をも突破できる。生きる意味を言葉にして伝えるのが宗教家の仕事ではなかったか。</p>

<blockquote><p>宗教者の自分がいまできることは生きる意味をもう一度考える手伝いをすること。立ち上がれない人、社会的、経済的に復興に参加できずにいる人に、細く長く係わっていきたい<br />
東日本大震災の仮設住宅で「<a href="http://sva.or.jp/eru/tohoku/miyagi/miyagi201110191386.html">お茶会ボランティア</a>」を続ける僧侶　<a href="http://twitter.com/#!/bkcn2k">佐藤良規（さとうりょうき）</a>さん<br />
東奥日報201112.07朝刊</p>
</blockquote>

<p>人生に意味があるかどうかということは問題にならない。人生の意味をさがす意味を求めることは病気である。目は目を見ることができないように。意味をさがすことが人生の意味ではない。</p>

<p>この世はなるほど無常であってもよい。しかしニンゲンは無常にさえ意味を見いだす心を何万年もかけて発達させてしまった。それはむしろ意味への意志とでもいうべきものだ。意味への意志というのは後天的に獲得する能力というより、人間の心の構造そのものに根ざした意志であるといわざるをえない。いやむしろ個人的な努力によって獲得するのは無理である。</p>

<p>かつてネアンデルタールなど多種多様な人類がこの世を生きていたのに、なぜホモ・サピエンスだけが残存できたのだろうか。われわれの祖先たちは、みずからの力ではどうにもならない過酷な運命にたいし、「意味」という心の斧を磨製石器のごとく研磨することで乗り越えてきのではないだろうか。</p>

<p>だからこそ生き残った人は一様にそのような希望を「いただいた」「あたえられた」と表現するのではないだろうか。ここに宗教の誕生がある。さらにいえば、彼らが見いだした意味とは、なかんづく他者からの呼びかけに応えることであった。
</p>
<p>呼びかけとは愛する人や家族、そして友人などかぎったものではない。道ばたの草花や夕焼けに赤く染まった岩木山、自分を包みこむあるとあらゆるものからの呼びかけに気づくということである。</p>
<p>
フランクル風にいえば呼びかけとは、自分が人生の意味を追い求めるのではなく、人生の意味が自分に何を求めているかという問いの転換が起こるということ。</p>

<p>これこそ限界状況で体験する意味の爆発、つまり至高体験の正体である。自分自身の経験からいっても、一度これを体験したものは二度と人生を失うことはない。</p>]]>
        
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    <title>今日のところはこれでよし</title>
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    <published>2011-12-29T01:35:29Z</published>
    <updated>2011-12-29T02:09:15Z</updated>

    <summary>アイデアが浮かぶということと、アイデアを形にすることはまったく別の仕事。前者を仕事にしてもいいし、後者でもいいし、その両方でもいいが、ニンゲ...</summary>
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        <![CDATA[<p>アイデアが浮かぶということと、アイデアを形にすることはまったく別の仕事。前者を仕事にしてもいいし、後者でもいいし、その両方でもいいが、ニンゲンというものは他者からの呼びかけさえあればどちらでもできるようにできている。自信がなくてもニンゲンはそうできているので自信をもってよい。</p>

<p>ことばにできないおぼろげなイメージを追い続け、いざ紙に写そうとしても筆がまるで動かないからといって悲観することはない。夢のなかで自分が自分のイメージする自分よりも創造的だと感じるならば、それは自分自身がそうなのだという夢のお告げ。それを無視する自分がいたらそれこそ悲観せよ。</p>

<p>本当の勇気は謙虚さとして地上にあらわれる。これは古の賢者たちが伝えるとおりである。デザインもそうだ。自分のちっぽけさを感じるくらい大きな対象と毎日格闘すること。このとき全身にみなぎるものは自信や野望ではなく、謙虚さである。</p>

<p>労苦に満ちた一日の作業もまるで皿洗いのごとく淡々とこなせるようになったら、人生の苦しみの大半は労せずして精算されているといってもよい。それはただ、「今日のところはまずまずこれでよし」と思えるかどうか。それとも「やっぱり今日もできなかった」と考えるか。</p>

<p>夏目漱石が自身の執筆のようすを「器械的」と手紙に書いているのは、つまりそういうこと。まるで軍隊のごとく規律的生活というものが、創作活動にもいえるということ。インスピレーションを待つのではなく、一日の決まった時間を実作業に投じること。神は神を考えていないときにふと訪れるものだ。</p>

<p>デザイナーにとっての働きがいとは、絵空事やスケッチにすぎなかったかたちを誰もがさわったり見たり聞いたりできるかたちに変換できたとき。イメージの世界から物理界へのコンバート。タルティーニの「悪魔のトリル」よろしくいくぶんイメージは間引かれているかもしれないが、ニンゲンはそれでよしとすべき。</p>

<p>だから自分にとって新しい何かに挑戦するとき、全身にみなぎるものはぜひとも謙虚さでなくてはならない。宇宙の神秘のまえにたたずむホモサピエンスのような気分で、あくなき好奇心と冒険心をもって一日の作業をせっせと器械的にはじめること。</p>]]>
        
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    <title>できたことのみ数える</title>
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    <published>2011-12-16T02:29:31Z</published>
    <updated>2011-12-29T02:08:10Z</updated>

    <summary> カラダ具合の悪いときは、あれもできない、これもできないと考えるのではなく、ひとつでも何かやったらそれぞれに満足すること。 　会社員であれば...</summary>
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        <![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="こたつむり" src="http://narajin.net/archives/images/IMG_0015.jpg" width="400" height="400" class="mt-image-none" style="" /></span>
<p>カラダ具合の悪いときは、あれもできない、これもできないと考えるのではなく、ひとつでも何かやったらそれぞれに満足すること。</p>

<p>　会社員であれば会社に行って帰ったというだけで立派にひとつの達成である。たとえその日の仕事がすべてダメダメであったとしても。 </p>
 
<p>　今日はあれもできなかった、これもできなかったとカウントすればきりがない。できたことだけカウントしよう。いったん数えだしてみるならば、よくもこんなにあるものだと自分でも呆れかえるだろう</p>

<p>　最低の一日のなかにもしも小さな達成をひとつでも見いだすことができるならば、それこそ大きな達成であり、大いに誇ってよい。</p>

<p>　買い物にいけた、便がでた、コーヒーが飲めた。痔の人にとってはお通じがちょびっとでもあったというだけで達成だ</p>

<p>他人にくらべて自分はできないというのではない。自分ができたことはすべて自分の達成である。</p>

<p>お通じは自分のもので、他人のではないように、自分のやることすべては自分の達成だから、自分の満足にしていい</p>]]>
        
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    <title>大切なのは</title>
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    <published>2011-12-16T02:18:37Z</published>
    <updated>2011-12-26T01:37:17Z</updated>

    <summary>大切なことは、おたがい何の気なしに、ゆるくつながって、それぞれ生きてればいいんだという。何かをしたり、されたりということよりも、つながってい...</summary>
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        <![CDATA[<p>大切なことは、おたがい何の気なしに、ゆるくつながって、それぞれ生きてればいいんだという。何かをしたり、されたりということよりも、つながっているという気づきが大切というか。これはお金も手間もかからないばかりか、これこそ人生を支える土台じゃないかとさえ思います</p>

<p>自分が苦手だな、嫌いだなと思う人とも、ゆるくつながることはだれでもできる。歩み寄りもせず、拒否もせずといううまい距離感が保てなくなると、相手か自分かを傷つけることになる。</p>
 
<p>なんでもクロシロはっきりさせなくていい。ニンゲンにおいてはとくに。一生に出会える人の数なんて世界人口からすればミクロ単位にも満たない。そのなかで好き嫌いをいったところで関係がよくなることはない。</p>
 
<p>つながりというのは人脈ではない。育てたり壊したりできるものではない。自分が何をしようとしまいと、つながっているということ。ニンゲンだけでなく、ありとあらゆる生きものたちや野原とつながっているということ。生まれてからも死んでからも。
</p> 

<p>そういうつながりを感じる時間を一日３分でもいいからもつということ。たとえ労苦にことごとく打ちのめされた一日の終わりにあっても。</p>]]>
        
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    <title>失敗を食べる</title>
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    <published>2011-12-16T01:56:25Z</published>
    <updated>2011-12-29T02:10:15Z</updated>

    <summary>今年は大きな成功と大きな失敗にふちどられた一年だった。成功とはやはり白血病完治であり、失敗とは健康の喪失ある。しゃべることも食べることもでき...</summary>
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    <category term="口内炎" label="口内炎" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://narajin.net/">
        <![CDATA[<p>今年は大きな成功と大きな失敗にふちどられた一年だった。成功とはやはり白血病完治であり、失敗とは健康の喪失ある。しゃべることも食べることもできないほどの口腔粘膜炎に寝ても起きても苦しんでいる。原因もわからないまま、薬だけが増えていき症状はまったく改善されずという日々を一年以上くりかえしている。体重も43キロから動かない。正直に白状すると失敗を帳消しにしてもらえるならば成功を投げ出してもいいというほどの泣き顔である。</p>

<p>だが失敗は帳消しにはならない。失敗は失敗である。しかし失敗を失敗として引き受けることだけはかならずできるということをフトンのなかで発見した。</p>

<p>NHK教育「The 女子力」にでていた料理研究家・瀬尾幸子さんが「料理のいいところは食べてしまえばなくなる」ことだと話していた。失敗作も食べればこの世から残さず消えてくれる。だから気にせず次にいける。だから料理はいいんだと語っていた。</p>
 
<p>朝イチ「夢の３シェフ競演」で視聴者からいい質問があった。<br />
「失敗したと思ったのはどんなときですか」<br />
三人とも「失敗なんてありすぎて、ほとんど毎日失敗」。イタリアンシェフの落合さんは「肉を焦がしたとか明らかな失敗はお客さんに出さないからそれはいいとして、お店にだせるんだけど自分的には失敗だったというのはしょっちゅう」。野球にたとえるとバッターは見送ってくれたが失投だったという感じであろう。</p>
 
<p>昔話になるが、自分がまだ駆け出しのデザイナーであったころよく励みにしていたのはアートディレクター・浅葉克己さんが教育テレビで語っていた一言だった。</p>

<p>「朝起きると自分はだめだ、もうだめだと思うところからはじまる。だめだと思いながらそれでもいろいろやっていくうちに、けっこういけるんじゃないかという気持ちになる。だけど次の日の朝にまたもうだめだとおもっちゃんだけど」</p>

<p>住吉美紀さんのエッセイにも似たような一節がある。<br />
<a href="http://narajin.net/2009/12/02-8.php" >住吉美紀エッセイ抜き書き02</a></p>

<p>瀬尾さんのように、毎日の暮らしはもちろん仕事もぜんぶ料理といっしょに考えていいのであって、失敗も成功も、朝昼晩とにかく食べつづけるということ。食べきらないと、次のお椀はでてこないから。挫折もなんでも好き嫌いせずとにかく食べていく。</p>

<p>食い意地が強いことを津軽弁では「ほいど」という。成功にも失敗にもホイドになれということ。逆に成功もせず失敗もせず凡々と生きたニンゲンはどうなるか。ダンテが神曲の冒頭でその末路を描いている。</p>

<p>「天はかれらを追放する。地獄も彼らを受け入れぬ。...こらの者は死のうにも死ねない。その盲目の生は、いといやしいゆえに、他の身の上がみなうらやまれてならぬ。」（寿岳文章訳　ダンテ『神曲・地獄篇』P32）</p>

<p>彼らは地獄に入ることすら許されない。ただ玄関のまわりを叫びの群衆となってたがいを罵り、打ちながら一つの旗を追ってぐるぐると回りつづけることになる。永遠に。つまり、成功も失敗もしない「沈香も焚かず屁も屠らず」のニンゲンは死ぬことさえできない。ニンゲンだからといってみな死ねるとはかぎらないとは前に書いたとおりである。</p>

<p><a href="http://narajin.net/2008/06/post-187.php" >残しちゃいけないもの</a></p>

<p>死にきるには生ききるしかない。生ききるとは成功も失敗も清も濁も何もかも食べきるということである。いま目の前にあるものを四の五のいわず食べるということである。たとえそれに毒が盛られているとわかっていても、皿まで食うという覚悟である。それが生ききるということである。</p>

<p>しかし覚悟した刹那、目の前から杯が消えてなくなったということはこれまで何度も経験した。われわれが人生で遭遇する労苦の何割かは、天の見えざるカードであらかじめ決済してもらえるらしい。もし覚悟を決めただけで精算してもらえるなら、覚悟だけでもしないと損ではないか。</p>

<p>だから失敗も成功もまずは口をつけてみようと覚悟した。これからも。食べれば食べたぶんだけなくなるのだから。</p>]]>
        
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    <title>居酒屋に告ぐ</title>
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    <published>2011-12-10T06:38:39Z</published>
    <updated>2011-12-10T11:15:12Z</updated>

    <summary>口腔粘膜炎で酒が飲めなくなってわかったこと。「飲みたくても飲めないニンゲンにとって飲み会は拷問」ということ。 忘年会などでどうしても居酒屋に...</summary>
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        <name>jin</name>
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        <category term="Foods:おいしいもの" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="口内炎" label="口内炎" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
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        <![CDATA[<p>口腔粘膜炎で酒が飲めなくなってわかったこと。「飲みたくても飲めないニンゲンにとって飲み会は拷問」ということ。</p>

<p>忘年会などでどうしても居酒屋に行かねばならないときがあるとする。サケを飲めないニンゲンはサケ以外のものを飲むことになる。しかし居酒屋のソフトドリンクメニューにはせいぜいウーロンだのグレープフルーツジュースだのお定まりの貧しい品目しかない。幹事さんに「飲み放題だからどんどん頼んで」と得意げにいわれてもウーロンを浴びるようには飲めないし飲みたくない。</p>

<p>ほかのニンゲンたちは「とりあえず生三つ」とかまあ凡庸に開始して中盤、ショーチューや日本酒やワインをゴーゴどあびて宴たけなわになると上機嫌の酔っぱらいが喉を枯らして持論を蕩々と述べるのであるが、飲めないニンゲンはシラフのままなのでひたすら聞き役に徹するほかなく、それがさらに酔っぱらいの気をよくしてさらに饒舌にするという無限地獄となる。</p>
<p>
じゃあ飲めないぶん食って元とったれと気持ちを切り替えても口腔粘膜炎の痛みで食えるものがほとんどない。それでお会計は割り勘でといわれてもすごい大損気分で帰ることになるから正直いっていま飲み会は行きたくないし、誘われても行かない。そもそも口が痛くて喋るのもつらいんだから。</p>

<p>もしどうしても飲み屋に行かねばならぬのなら、コーヒー飲めるところがいい。相手はサケ飲めるし、こっちはコーヒー飲めるから。だから居酒屋よりカフェのほうが好き。弘前だとTubelaneとか、ジルチとか、キオラとか。深夜までやっててカプチーノやアイスクリームをおいてるところがいい。</p>

<p>コーヒー飲みたい。エスプレッソの濃いの飲みたい。カップの底に黒い沈殿物が残るようなドロっとしたのをブラックで飲みたい。</p>

<p>ビール飲みたい。生エビス、生モルツ、ハートランドをジョッキでコクコク飲みたい。</p>

<p>赤ワイン飲みたい。カベルネ飲みたい。チーズとパンだけで飲みたい。</p>

<p>飲めないものを並べあげてみたところで飲める見こみもないし、酒にいたってはもう頭から消えかけている。でもたまに友だちとサシで飲みに行ったりして、相手が上機嫌でジョッキを仰いでいるのを見ると無性に腹が立つ。それでワインやショーチューを勢いでオーダーしたりするのだが、たった一口で痛みに悶絶して結局相手に差しだすことになる。</p>

<p>だから世の居酒屋に告ぐ。いつまでもウーロン茶とりんごジュースでいけると思うなかれ。なぜノンアルコールビールがファミレスでも人気かよく考えてみよ。車のオトウサン、子ども、病人でも飲めるものを充実せよ。大手ファミレスにつぶされないために。せめてコーヒーおいてくれ以上。</p>]]>
        
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    <title>76.無責任さ</title>
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    <published>2011-12-05T07:43:48Z</published>
    <updated>2011-12-05T07:44:21Z</updated>

    <summary>幸い私は「大学」と縁を切ることができました。外国へ行ったきり国へは帰らなかったから、その分、縁を切るのは簡単でした。おかげで学位論文を書く必...</summary>
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    <category term="シオラン" label="シオラン" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://narajin.net/">
        <![CDATA[<blockquote><p>幸い私は「大学」と縁を切ることができました。外国へ行ったきり国へは帰らなかったから、その分、縁を切るのは簡単でした。おかげで学位論文を書く必要もなければ、大学の教職にもつかずに済んだわけです。その後は、自分は「私的思想家」-と言えば、いささか大げさかも知れませんが、でもやっぱりそういうものなんだと思ってきました。ヨブは、「私的思想家」と言われていましたが、まあ、もっとも、私的思想家になること、ヨブのエピゴーネンになることは私の野望でした。私がだれかの弟子だったとすれば、さしずめヨブの弟子でしょうね。もし大学の教職などに就いていたら、こういう野望はみんなご破算になり、私にしても、いずれは野望のことなど忘れてしまったでしょうね、教職に就いていたら、しかめつらしい文体と、没個性的な思考の採用を余儀なくされたでしょうから。いつだったか、講座の正教授であるフランスの哲学者に「あなたは個性を失うために給料をもらっているんだよ」と言ったことがありますがね。こういう人たちが、やれ「存在論「だの、やれ「全体性の問題」だのについて論じているんですよ。</p>
<p>私には職業もなければ義務もない、私は自分の名においてしゃべることができる。私は独立の人間で、教えなければならない義務もない。書いているとき、出版される本のことなど念頭にはなく、私は自分のために書く。申し上げておかなければなりませんが、この無責任さ、これが私の幸運であることがわかったんですよ。私は誰にも頼らなかった。すくなくともこの点では、私は自由だった。問題を考えるときは、自分の職業とはかかわりなしに考えなければならないし、まったく周縁人の立場に立たなければならないだろうと思っています。もちろん私は先駆者などではなく、せいぜい......そうですね、ひとりの周縁人というところでしょうか。（2004.01.23記）</p>
<p><cite>シオラン著　金井　祐訳『シオラン対談集』　P251　法政大学出版局　叢書ウニベルシタス586</cite></p>
</blockquote>
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    <title>98.翻訳されないエネルギー</title>
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    <published>2011-12-05T07:41:09Z</published>
    <updated>2011-12-05T07:41:37Z</updated>

    <summary>野生の動物がうなっているのを見た場合、「なんて美しい動物だろう」って言うよね。「この動物、何を怒っているんだろう」とは思わない。そういうこと...</summary>
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    <category term="jazz" label="JAZZ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://narajin.net/">
        <![CDATA[<blockquote><p>野生の動物がうなっているのを見た場合、「なんて美しい動物だろう」って言うよね。「この動物、何を怒っているんだろう」とは思わない。そういうことなんだ。ぼくにはそのエネルギー自体が美であって、そのエネルギーによって結果的に生まれる色合いにはそれほど興味がない。.....
誰にでもあり得ることだと思うんだ。突然、怒りというのではなくて、信じられないような熱情を感じる場合があるよね。これは怒りとは違って、野生の動物のと同じような、激しい、強烈な感じが心を満たす。次にどうするかと言えば、「これはどうしてだろう？」と自問する。この疑問に対しては科学的に、いや論理的に答えるしかないと考えてしまう。どうしてこの熱情を感じるのか？　ああそうか、ここでこうなって、だから、うんうん、そういうことだったのか。じゃあ今日はオレ、もうめちゃくちゃに怒るぞって、ぐあいに。</p>
<p>しかし、そうなってしまうと、エネルギーがあったのに、そのエネルギーを怒りに翻訳してしまったことになる。....</p>
<p>ぼくは人生というのは自分がどう感じているかということがすべてだと思う。その感じを脳が何が扱いやすいものに変えてしまう前の状態のそのフィーリング、それこそがすべてだ。覚醒状態にいるとエネルギーそのものを感じることができるから、もう自分の感情に混乱させられることはなくなる。実際、感情を分析しない限り大丈夫なんだ。（キース・ジャレット）（2004.04.17記）</p>
<p><cite>山下邦彦編『坂本龍一・全仕事』太田出版　P116より<br>
原文は『キース・ジャレット』音楽之友社</cite></p></blockquote>]]>
        
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    <title>113.タオ</title>
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    <published>2011-12-05T07:37:25Z</published>
    <updated>2011-12-05T07:38:56Z</updated>

    <summary>『不思議な国のアリス』に裁判の場面がある。裁判中、白うさぎは事件にぜんぜん無関係な、わけのわからない詩をめんめんと読みあげる。すると王様は「...</summary>
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    <category term="スマリヤン" label="スマリヤン" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://narajin.net/">
        <![CDATA[<blockquote><p>『不思議な国のアリス』に裁判の場面がある。裁判中、白うさぎは事件にぜんぜん無関係な、わけのわからない詩をめんめんと読みあげる。すると王様は「これほど重要な証拠はいまだかつて聞いたことがない」と意気揚々に言う。「意味がまったくないではありませんか」とアリスが抗議すると、王様は答える。「意味がないほうがみんな助かるんだ。意味をさがさなくてすむからね。」</p>

<p>タオイストにもこの王様に似たところがある。タオの存在を主張しない、だからその存在を証明する必要もないというわけだ。これこそ中国人の知恵の最たるものと言えよう。</p>

<p>西欧の宗教史は論争と闘いの歴史だ。神の存在をめぐってどれだけの血が流され、どれだけの人が拷問にかけられたことか。宗教は生死の問題、いやそれ以上のものにされてしまった。キリスト教徒はどんな犠牲をはらっても「異教徒と無神論者の魂を救うために」神を信じさせようとした。また無神論者は無神論者で、神を信じることなどこどもや未開人の迷信にすぎないし、社会の真の発展をことさら妨げるものであるとキリスト教徒に反撃した。</p>

<p>両者はこうして攻撃しあい傷つけあった。その間タオイストの賢人はなにをしていたか。川辺でお酒を飲みながら詩の本を読んだり絵を描いていたのだ。そして心ゆくまでタオを満喫していた。賢人はタオが存在するか否かなどと悩まない。あえてタオの存在も肯定しない。タオを満喫するのに忙しくてそんな暇もないのだ。</p>

<p><cite>レイモンド・Ｍ・スマリヤン著　桜内篤子訳『タオは笑っている』P11　工作舎 </cite></p>
<p>（2004.06.18記）</p>
</blockquote>]]>
        
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    <title>64.もっと魚をとりたまえ</title>
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    <published>2011-12-05T07:34:58Z</published>
    <updated>2011-12-05T07:35:46Z</updated>

    <summary>ニューヨークに住む裕福な企業家が、コスタリカの海辺の町へ二週間の休暇を過ごしに出かけた。彼は現地に到着したその日に、地元の漁師から買った魚の...</summary>
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        <category term="経済と人権" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="働くこと" label="働くこと" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://narajin.net/">
        <![CDATA[<blockquote><p>ニューヨークに住む裕福な企業家が、コスタリカの海辺の町へ二週間の休暇を過ごしに出かけた。彼は現地に到着したその日に、地元の漁師から買った魚の、えもいわれぬ味わいにすっかり見せられた。</p>
<p>翌日、波止場でふたたび漁師と出会ったが、その日の獲物はすでに全部売り切れていた。</p>
<p>どうやら漁師は、とびきり上等の魚が大量に獲れる穴場を知っているらしいが、一日に獲るのは五尾か六尾に決めているという。</p>
<p>なぜもっと熱心に働いてたくさんの魚を獲らないのかと、企業家は尋ねた。</p>
<p>「そうはいっても、だんなさん」と漁師は答えた。</p>
<p>「今の生活なら、毎朝九時か十時までのんびり寝ていられるし、そのあとは子供たちと遊んで、それから一、二時間ばかり漁に出ればいい。午後は一時間か二時間ほど昼寝して、夕方は早めに家族全員でゆっくりと晩飯が食える。それで夜になったら村へ繰りだして、仲間とワインを飲みながら、ギターを弾いたり歌を唄ったりして、毎晩楽しく過ごせるんですよ。やりたいことをやって何不自由なく暮らしているのに、これ以上何が必要なんです？」</p>
<p>企業家はいった。</p>
<p>「もっと魚を獲りたまえ。そうすれば、きみの未来はばら色だ。いいかね、わたしはニューヨークから来たビジネスマンだ。きみの人生が今よりもっとすばらしいものになるように手を貸してあげよう。何を隠そう、わたしはハーバードでＭＢＡを取得した経歴の持ち主だ。ビジネスやマーケティングに関して知らないことは何ひとつない」</p>
<p>さらに調子に乗ってつづけた。</p>
<p>「バラ色の未来を実現させるには、まず、毎朝早起きをして夕方まで漁に励み、夕食後また漁に出ることだ。そうすれば、あっという間に金がたまって、もっと大型の船に買い換えることができる。二年もしたら、五、六隻の漁船を所有して、仲間の漁師たちに賃貸しできるようになる。それから五年もすればきみのもとに集まる莫大な量の魚を加工するための工場を持てるし、なんなら独自のブランドを立ち上げることだって可能だ。」</p>
<p>漁師の困惑した表情を尻目に企業家は言葉を継いだ。</p>
<p>「さらに六、七年したら、ニューヨークでもサンフランシスコでも好きな都市に移り住んで自社製品の営業に専念し、工場は誰かに任せればいい。十五年か二十年もしっかり働けば、大富豪になるのも夢じゃない。そうなったら、あとは死ぬまで一日だって働く必要はないんだぞ」</p>
<p>「そしたら、何をすればいいんです？」</p>
<p>「そしたらメキシコかどこかの小さな村に移り住むことができるよ。毎日のんびり朝寝を楽しみ、村の子どもたちと遊んで、午後はたっぷり昼寝をして、ゆっくりと夕食をとって、夜は仲間とワインを飲みながら、ギターを弾いたり歌を唄ったりして、毎晩楽しく過ごせるじゃないか」（2004.01.11記）</p></blockquote>
<cite><p>アーニー・Ｊ・ゼリンスキー著　前田曜訳『ナマケモノでも「幸せなお金持ち」になれる本』英治出版</p></cite>
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    <title>87.色彩</title>
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    <published>2011-12-05T06:35:41Z</published>
    <updated>2011-12-05T06:38:27Z</updated>

    <summary>「鋭敏な感性だけ摘みとられていく、この不条理な天の配剤が怨めしい」 1990年、イタリアの作曲家ルイジ・ノオノが亡くなったとき、武満徹はこう...</summary>
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    <category term="音楽" label="音楽" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://narajin.net/">
        <![CDATA[<blockquote><p>「鋭敏な感性だけ摘みとられていく、この不条理な天の配剤が怨めしい」</p></blockquote>

<p>1990年、イタリアの作曲家ルイジ・ノオノが亡くなったとき、武満徹はこうつぶやいた。</p>

<p>そして1992年、ジョン・ケイジとオリビエ・メシアンの死。彼等は現代音楽の精神的支柱たる存在であったから、天を怨むのは武満だけではなかったであろう(*)。メシアン死去の４年程前に超大作「アッシジの聖フランチェスコ」完成のニュースを聞いたとき、「これが遺作になるのでは...」と正直思った。実際にはその後３つほど新作を書き下ろしたものの、やはり最後の代表作となってしまった。</p>

<p>友人に録ってもらった「アッシジの聖フランチェスコ」を聴く。人の合唱と巨大な楽器群が、疾風怒濤のごとく責めぎあうヘヴィさにまず圧倒された。制作に要した８年の歳月が、４時間に濃縮されているといった印象である。この巨大な編成はすべて、彼のパレットを何千種という多彩な「色」で満たすために用いられた手法であろう。特に打楽器と管楽器の絡みなど、極彩色がすぎるくらいだ。</p>

<p>こうしてみると、メシアンの音楽それ自体が、色彩以外の何者でもないように思えてくる。例えば14世紀フランスの音楽家達が、旋律そのものをコロル（ｃｏｌｏｒ＝色）と呼んでいたように。またインドの聖典が、「耳から入り込み、精神を着色するもの」と音楽を諭すように。とすれば彼が「トゥーランガリラ交響曲」という異教的人類愛に行き着いたのも、キリスト者としての自我と、東洋的宇宙観とが有機的結合を果たす幻視の世界に、「色彩」をキータームとして到達したからではないか。</p>

<p>視覚と聴覚の相互関係という末端的解釈にとどまらず、色彩を生み出す根元に着眼してこそ、メシアンの音楽は生気を帯びてくるように思うのだが。（2004.02.14記）</p>

<p class="foot">(*)ご存じの通り、武満徹も1996年に他界した。</p>]]>
        
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    <title>楽しくなければアクセシビリティじゃない</title>
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    <published>2011-11-28T05:40:36Z</published>
    <updated>2011-11-29T00:51:00Z</updated>

    <summary>「青森Webアクセシビリティフォーラム〜みんなが使えなければWebじゃない！」に行ってきた。主催であるエイチピースタイリングさんは、W3Aと...</summary>
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        <category term="Social:社会の時間" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="アクセシビリティ" label="アクセシビリティ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://narajin.net/">
        <![CDATA[<p>「<a href="http://w3a.in/フォーラム情報">青森Webアクセシビリティフォーラム〜みんなが使えなければWebじゃない！</a>」に行ってきた。主催である<a href="http://www.hpstyling.com/">エイチピースタイリング</a>さんは、<a href="http://w3a.in/">W3A</a>というプロジェクト名でアクセシビリティの普及を県内で進めてきたいわばパイオニアである。彼がいなかったら青森県のアクセシビリティ度は今よりずっと低いものであったと思うほどだ。</p>

<p>一方、自分はというとカラダぐあいもあって今年は満足のいく福祉活動をほとんど何もできていない。その反省もあり、せめてフォーラムだけでも参加せねばと青森へむかった。４時間半という長丁場プラス懇親会に体力がもつのかという不安もあったが、駅前で「<a href="http://chachacha.co.jp/">ちゃちゃちゃ</a>」で抹茶アイスと抹茶ラテを充電、とちゅう経口栄養剤を２本吸いながらなんとか正気を保つことができた。</p>

<p>今回のフォーラムでいちばん感じたことは、とにかくできることから取り組み、そして続けることが大切だということ。切れ痔といっしょで力みは禁物だということだ。さらにいうと「<strong>楽しくなければアクセシビリティじゃない</strong>」。</p>

<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="ティム・バーナーズ・リー" src="http://narajin.net/archives/images/bite006.png" width="236" height="358" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" /></span>
<p>WEBの父である<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/ティム・バーナーズ＝リー">ティム・バーナーズ・リー</a>はかつて" The power of the Web is in its universality. Access by everyone regardless of disability is an essential aspect."「WEBのもつ力はまさにそのユニバーサル性そのものなんだ。誰でもアクセスできること（たとえ障害者であろうとも）こそ、WEBのもっともWEBらしいところなんだ」と語った。</p>

<p>これはそのまま、なぜ世界中の人々がWEBに夢中なのかという問いの答えでもある。もしWEBが彼のいう本当の意味でのWEBになったとき、つまりWEB本来のパワーにめざめたとき、障害者にかぎらずすべてのニンゲンにとってWEBはもっと楽しいWEBになっているはずだ。楽しさは楽しさからしか生まれない。WEBの楽しさを生みだす楽しさこそ、アクセシビリティではないか。だから義務や責任からではなく、楽しみながらゆっくり取り組んでいこうとおもった。</p>

<p>まずはW3Aの「<a href="http://w3a.in/archives/category/a11y-webdesign">障害者とウェブ制作技術</a>」カテゴリに書いた「規格の策定者が解説するJIS X 8341-3:2010」の続きからまた再出発しようとおもう</p>

<p>フォーラムの内容そのものについては、正直にいうとみんな本当に理解できたのか心配も残ったが、青森ではアクセシビリティのセミナーそのものが貴重であり、結果的には30人以上の方々が来場されたことを思えばたいしたことではない。赤字覚悟で今回のイベントを主催したエイチピースタイリングさんはさぞ大変であったろうとおもう。貴重な週末を割いて本州最北の地まで来られた講師陣の方々にもただひたすらに感謝である。</p>

<p>さて、ここでいったん我が身を振り返り、じゃあ今年いったいキミは何をしていたのかねと問われたら、せいぜい同じ障害者どうしでおしゃべりしたりメールしたり盲人卓球したり、飲んだり食ったりしているだけで、結局のところ何もしていない。それどころか、むしろ彼らから教わることのほうが大である。それは障害者手帳の活用法、スクリーンリーダーや点字の知識、もしくはデイジー図書の利用といったこともあるが、実はもっとラディカルな話で、どういうことかというと、障害者になる前の自分が、いかに盲目であったか、いかに狭い視野で社会というものを見ていたかという己の無知ぶりに愕然としたということである。目が見えなくなってからのほうが、世の中がよく見えるようになってきたという話なのだ。</p>

<p>たとえば、自分がこれまで属した学校や職場にはなぜ視覚障害者がいなかったのか。そんな疑問などこれまでもったことすらなかった。さらにいえば精神障害者、病人、肢体不自由者や死にかけの老人はいったい、なぜ我々の周りで見かけないのかという素朴な疑問である。</p>

<p>末期ガン経験者の立場からいうと、入院するということは、いったん社会から合法的に消されるということではないか。病院でなくとも施設やホームという聞こえのよい名で、障害者や高齢者にも同じことが起こっているのではないか.....などなど。つまり合法的に隔離、もしくは排除されているニンゲンがこの世にはいるのではないかという疑問である。フーコーの「監獄の誕生」ではないが、近代の病院が監獄のシステムをまねることから誕生したというのは笑えない歴史である。</p>

<p>東日本大震災の惨状が世界中で伝えられたとき、日本人のもつ和の心に世界から賞賛と感動の声が届けられたことは記憶に新しい。しかし一方で<a href="http://wadachi.ecom-plat.jp/?module=blog&eid=14017&blk_id=13768">障害者の死亡率が高かった</a>ばかりか、仮設住宅は<a href="http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110817-OYT1T00525.htm">車椅子で入ることすら困難な設計</a>であったこともまた日本の現実である。</p>

<p>全国の駅では<a href="http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110427/dst11042716370016-n1.htm">ホームから転落する視覚障害者</a>があとをたたず、街では走行中の自転車が<a href="http://mainichi.jp/select/jiken/ginrinnosikaku/archive/news/2011/20110816org00m040999000c.html">視覚障害者の目である白杖（はくじょう）を折りながらそのまま立ち去る</a>という信じがたい事態が日常的に起こっている。</p>

<p>一人の視覚障害者として、一人のデザイナーとして、自分にできることは何か、いったい何をなすべきかということは入院中から考えてきたことである。それがアクセシビリティであるということは当然の帰結であり、いまさら考えるまでもないことだが、何もせずに一年が終わろうとしていることだけを人生の記録として書いておく</p>


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    <title>苦しみと滑稽味</title>
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    <published>2011-11-24T08:58:06Z</published>
    <updated>2011-11-25T05:53:39Z</updated>

    <summary>たしか夏だったと思う。腫瘍マーカーの検査結果を手にした主治医の口からはじめて「ほぼ完治」のことばが発せられた。５年前、無菌室のなかに横たわっ...</summary>
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        <category term="08:移植4年生活" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    <category term="口内炎" label="口内炎" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#tag" />
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://narajin.net/">
        <![CDATA[<p>たしか夏だったと思う。腫瘍マーカーの検査結果を手にした主治医の口からはじめて「ほぼ完治」のことばが発せられた。５年前、無菌室のなかに横たわっていたころには夢のまた夢だった願望が、ついに現実化した瞬間である。どんだけ嬉ぶかと思いきや、意外にも静かな自分がいた。ともかくも、ひとつの難事をやり遂げたという言葉にならない嘆息を漏らすのみであったことをよくおぼえている。</p>

<p>喜びというものは、幸福にとってほんとうに必要であろうか。それよりも、ひとつの苦しみが終わったときの、あの何ともいえぬホッとした心持ち、充実感こそ言いしれぬ人生の味わいではないかとおもう。それは一日のつらい労働がともかくも終わりを告げたあと、ひとり居酒屋で飲むビールのなんともいえない苦味にも似ている。</p>

<p>変な言い方をすれば、ぼくにとって幸福にはぜひとも苦しみが必要なのだ。だから苦しみを自ら望んだフランシスコ・ザビエルは同時に、自らの幸福をまっすぐに求めたニンゲンでもあったのだと今では思うようになった</p>

<p>よく人から「前向きだ」（新聞にも書かれた）とか「病気としっかり向き合っている」とか声をかけられることがある。いわれた当人にすればとんでもない話だ。実情はそんなリッパなものではない。日々是、ただ痛みと苦しみがあるのみである。例えるならば、海底で息ができず七転八倒しているダイバーのようなもので、そこには冷静な思考も観想も何もあったものではない。苦しみの最中というものは、苦しさを感受する余裕すらないというのが本当のところである。苦しみには前向きも後ろ向きもない。ただただ苦しい、痛いのだ。これがぼくの５年間であり、そして白血病が完治した今となっても何も変わりがない。</p>

<p>なぜブログを書くのかと問われたら、それは書かねばとてもやりきれぬ時があるからだ。それを他人が見てどう思うかというよりは、自身が発狂しないためにぜひとも必要であり、もっぱら自分のためだといえる。
</p>
<p>Twitterも同じだ。自分にとっては、コミュニケーションツールというよりも、排泄ツールであり、140字弱の排毒である。端からみれば終わりのない嘆き節にみえようが、絶望の垂れ流しにうつろうが、そんなことはどうでもよい。ただ、書くと痛みが楽になるというだけで書く。</p>

<p>ブログを読んでくれる友人たちにもし望むことがあるとしたら、それは同情や哀れみや励ましではない。むしろ滑稽におもってほしい。クスッとしてほしい。それがぼくにとっての喜びといえば喜びかもしれない</p>]]>
        
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