自転車上からチラ見するものが二つある。ひとつはカワイイ女の子、ひとつは小屋である。それも掘っ立て小屋といったらいいような、朽ち果てたものが好きだ。
こんな小屋を見つけたときはチラ見どころか、胸が苦しくなってしまい、恋心にも似たきもちになってしまう。
庭のはずれにポツンとたたずむ小屋の凛としたすがたには、どこか修道的な、独居の美があるようにおもう。ディオゲネスの樽サイズまで小さくなると厭世もすぎるというか、かえって俗物に転じてしまう。屋根もあり、いちおうの生活のたたずまいが感じられるような、しかし哀しいほどこじんまりした小屋というものがいとおしい。
持ち主からも忘却されたような朽ちた小屋には、Artempoな、時の造形がある。しかし古ければよいというものではない。門前に「国指定重要文化財」などとたいそうな看板をこれみよがしにかかげる石場屋酒店のごときはいけない。古さを誇るのはいやらしい。
むしろ世間で価値なしといわれるものにこそ、美が棲みつくものではないだろうか。錬金術がもっとも重んじたのも路傍の石(プリマ・マテリア)である。名もなきただの小屋にこそ、輝きをみつける楽しさがある。
撮影:iPhone(App: Toy camera, Polarize クリックで拡大)





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