行政とのおつきあい
お役人がどうのというまえに、お役人というのは何をしている人たちなのか、何のためにある人たちなのか、そしてぼくらはどうつきあっていったらいいのかなど一度はちゃんと考えておいたほうがいいなと思ってきた。
こないだ抜き書きした太宰の『家庭の幸福』などは、ひごろぼくらが暗に感じている行政にたいする不満というものを、痛快なまでに代弁しているとおもう。いくぶん感情的ではあるが、そして役人はそういった意見にはまったくとりあわないものだとわかってはいるのだが、ああいうふうに言わざるをえない、まさに憤懣やるかたなしといった心の動きをさすがによく描いているとおもう。
黒澤明監督の『生きる』にしても、胃ガンに冒された主人公の死にざまと対比せられているのは、行政の、役人たちの生態である。
「彼は生きているとはいえない」と、冒頭のことばからして厳しい。ここには監督自身の個人的な憤りというものが、あえてそのままの姿で投げだされているのではないだろうか。
行政の根本は自治
とまあ、どうしてもお役人の話になるとなぜか感情的にならざるをえずといったところなのだが、まずは話のきっかけとして、県庁勤めの友からもらったメールを紹介しておこう。
...行政に対する批判的な思いを持たれることについては、我々としても否定するものではありませんし、むしろそれを政策提言として行政に持ちかけてくだされば、行政側としては本当に嬉しいことなのです。(行政の根本は「自治」ですから)
問題なのは、大所高所からの俯瞰なしに単に怒鳴り続けるだけの方が多いことです。情けない話ですが、「税金泥棒」とか「公金のムダ遣い」だけ言われても、実は言われ慣れていて、ただうんざりするだけなのです。(私にしても、今まで何回言われたかわかりません)
きちんと論理的に(もちろん実態を交えて)「こういうところをこういうふうに変える、それならムリなくできるのでは?」と提案してくれれば、たとえ二つ返事といかなくても、行政は絶対に身を乗り出して聞きますし、その後も忘れません。(ここができない人は、公務員としての資質に問題あり)
この場合、市議会議員や県議会議員、場合によっては国会議員を使うのもアリです。彼らは住民・国民の代表ですから、(違法行為をゴリ押しするために使うのは論外ですが)役所に対し、または議会の場で代弁してもらうことはむしろ自然なあり方だと思うのです。
あとは、国も自治体も財政が逼迫している中でどうするか。「やりたいけどできない」行政にはこれが多いです。これについては、異論もあるでしょう。実は、そこで煮詰まっている公務員も多いです。
さすがは声がとってもセクシイなニーチェの友である。わかりやすい。これで行政の役割というものが、ちょっとスッキリとみえてきたような気がする。とくに「行政の根本は自治である」というベーシックなところをまずは押さえておくべきであろう。主人公はぼくら自身だということである。
しかし、ぼくは行政の役割や意義といったことよりも、ここでもっとバカな質問をしたくなってきた。
「大義名分はよくわかりました。ところでお役所のみなさん、毎日のシゴトはおもしろいですか? じつはウンザリしてるんじゃないですか? 無意味な書類づくりに悩殺されてどんどんニンゲンらしさを失ってませんか?」
「自分でもほんとは気づいてるんでしょう、でも生活の不安があるから己の本心を殺して生きざるをえない。それがあの、うわべだけご丁寧な、でもじつはウンザリしているといった、偽善的態度になって、不器用に生きるわれらを憤怒させているのではないですか」と。





お役人様は資本主義の外側で生きているから、資本主義の中でもがいている我々とはリアリティが違うのでは?
しかし、何をやってもどこかから文句が来る仕事というのも大変でしょうねぇ。
たしかに市民の不満のはけ口にしやすいという、やるせない面もある。それにお役人のなかにもカッコイイなあ、という人がいるというのも個人的経験からしてたしかだ。
ただ、ぼくは行政というシステムそのものがまるで生き物のように自己保存にやっきになって、もう人間には手に負えない怪物となって、そこに属する人間を疎外しようとしているんじゃないかという危機感が前からあるんです。これは今の市場システムにもいえることです。
行政のばあい、いやでも偽善者にならざるをえない、構造の力がはたらいているのだとおもいます。
もちろん個人的な自己保身も作用しているでしょうけど。