幻覚の友の言った「人生に意味などない」について、昔からニーチェに親しんでいる友に問うた。この友はいつもむずかしいことをやさしく説明してくれるのでいたく重宝するのだ。
彼はとてもセクシイな声の持ち主であり、ほんの与太話でも、彼の口から発せられると不思議な重みをもつ。彼のエロ話は、ほんとうにエロいのだ。
「人生は意味などない」をきっかけに、今ヨノナカでおこっていることも問いかけてみた。自殺と無差別殺人は、おなじニヒリズムという種子から発芽したちがう果実ではないか、という切り口から。
...正直、私は「人生に意味があるかないか」ということを考えたことがあまりありません。難しすぎて、考えようがないのです...むしろ、「孤独」であったり「不安」であったりというものを、どう受け止めどう解き放っていくか、そっちのほうがたいへんです。
「どう受けとめるか」というところがまずカギだナー。
ご友人が「人生に意味などない」と言われた、その真意はわかりかねますが、「人生に客観的意味などない」ということなら、そうなのかもしれません。生まれてから現在までがどのようなものであれ、「これが自分の人生か!」と心から肯定し受け止めること、その重要性を説くためにニーチェは「永劫回帰」の思想を用意しました。
ニーチェはただ現世を憂えたのではなく、どうやって乗り越えるかを考えていたということだろうか。「人生に意味があるかないか」という問いそのものには意味がない。だから答えようがないのだ。これは忌むべきというより、自由の証しでもあるんじゃないか。歴史上のどんな金言にも服従する義務はない。しかし、ここを乗り越えられなかった人間はどうなるか。
...ただ、それが独りよがりになり、世間に反目してしまうと、「ツァラトゥストラの猿」になってしまいます。ニーチェを都合よく、あるいは逃避的感情で読むと往々にしてそうなりがちだそうです。
ニーチェは読み手によっていかようにも解釈されうるというのはここに由来しているわけだ。
...この猿は、ツァラトゥストラそっくりの言辞を弄して、世間への嫌悪をぶちまけます。当然ツァラトゥストラはそれを諫めるわけですが、嫌悪というのは、ルサンチマンと同義であり、「自分が認められないこと」への不満が根底にあります。
民主党もこれなんじゃないかと思うときがある。
近年の世情の不安定さは、よくわからない「ガンバレ」にあるのではないかと思っています。「がんばればなにかになれる」という根拠のない考え方(教育?)が浸透したため、それに妄執した挙句「何にもなれない」と覚った瞬間、ルサンチマンにはまってしまうのではないでしょうか。
学校でも会社でも老後でも、「なる」ことを世間から脅迫されている。ただ「ある」だけじゃ人間としてダメだ、という信仰のもとに。その呪文が「ガンバレ」であろう。
...それで勝手に世間に背を向ける、あるいは攻撃してしまうのが、病理的ニヒリズムなのでしょう。
世間に背をむけると自殺、攻撃にむかうと無差別殺人になるということか。ニヒリズム〜ルサンチマンという流れでみていけば、この両者がひとつになるわけだ。(続く)





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