1985年「労働廃絶論」
オフィスや工場のヒエラルキーや規律は、刑務所や修道院で見られるものと同じものである。実際、フーコーたちが示したように(*1)、刑務所と工場はほぼ同時期に登場し、その管理者たちは意識してお互いの管理テクニックを借りたのである。
労働者はパートタイムの奴隷なのだ。
いつ出勤し、いつ帰るか、その間何をするかはボスが決める。ボスが仕事の量と速さを指示する。極端に屈辱的な統制をするのも勝手だ。望むなら、身につける服やトイレに行く頻度まで規定することもできる。少数の例外を除き、どんな理由のためにでも、あるいは理由なしでも、あなたをクビにすることができる。
ボスは密告屋と上司によって従業員をスパイし、全員の身上調査書を積上げている。
口答えすることは「反抗」と呼ばれ、労働者はいたずら小僧扱いだ。「反抗」すれば単に解雇されるだけでなく、失業保険も無効にされかねない。
保証人の承諾がないとどうにもならない点は、家庭や学校での子供たちの待遇と同じであることに注目したい。子供たちの場合は、「未熟」と想定することでそれが正当化される。では、労働者である、子供たちの親や教師についてはどうなのだ?
特定の目的のためなら、我々のシステムを民主主義や資本主義 −あるいはもっとマシな− 産業主義と呼ぶことは、必ずしも間違いとは言えないかもしれない。しかしその本当の名前は、工場ファシズムやオフィス独裁なのだ。(*2)
人々が「自由である」と言う奴はウソツキか大バカ者である。
人は自分がしている通りの人間になる。もしあなたが、退屈で愚劣で単調な仕事をしているなら、あなた自身も最後には退屈・愚劣・単調な人に成り果てるだろう。(*3)
「労働廃絶論」
Bob Black「THE ABOLITION OF WORK」
(*1)ミシェル・フーコー 「監獄の誕生--監視と処罰 」にくわしい。工業や学校だけではなく、精神病院もまた監獄のしくみをそっくり頂戴することから出発した。患者は文字通り「縛られ、打たれた」のである。私自身も病院で縛られた経験があるのだが、なにより恐ろしいのは、医師や看護師たち自身が、自らの残忍ぶりにまったく無頓着であることだ。われわれはそろそろ善人(権力者)の"お為ごかし"に気づかねばならないだろう。
(*2)「本来、弱い人間は、自由という重荷には耐えられない。たえずその前にひれ伏して服従する崇拝の対象を求めている(カラマーゾフの兄弟)」のである。民は自由を望むふりをしながら、実は学校や企業や国家への帰属をのぞむ。なぜなら、楽だからである。
(*3)かように人間性を喪失した労働者の行きつく先は、鬱であり、絶望であり、自殺であり、無差別殺人である。「派遣」という契約形態は、ついに絶望の大量生産に乗り出したのではないか。





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