大きな命からの呼びかけ
浅井:たとえ人生にどんなことがあっても、たとえあなたが絶望したとしても、それでも人生はあなたにイエスと言っているという、その人生からのということで、何らかの超越的なものからのまなざしとか呼びかけとかですね、そういうものを語ろうとしているということでしょうか。
山田:そのことを宗教では超越者からの恩寵とか、仏教では廻向とか言っていると思いますね。ただそういうふうな宗教的な言葉を用いなくてもですね、たとえばここに花が咲いているとかですね、幼子が母親に微笑みかけているとかですね、そういったことが本当は自分を超えた大きな命からの呼びかけであり廻向であるというふうなことではないかと思うんですね。ですから自分が息を吸ったり吐いたりするというのも生きているからで、この生きているという事実は、この大きな命の働きがなくてはできないことだと思うんですね。
たとえば今まさに自殺しようとしている人でも、心臓が動いていてくれていると(*)、いうことですね。それは生きていてくれと、いう大きな命からの呼びかけではないかと。それが、つまり「それでも人生はイエスと言う」ということの証ではないかと、そういうふうに受け取るということですね。(終わり)
(*)浄土宗でも同じ言い回しをよく耳にするが、私はどうも素直に同意することができない。むしろ肉体の要求(食いたい、やりたい、眠りたい)に背後から煽られて、人生のあいだ一度も立ち止まることを赦されないのが現実存在の本質ではないかと思う。つまり、心臓が動いているということは、恩寵であると同時に、十字架でもあるということである。グノーシス主義やジャイナ教はむしろ心臓が動いていることを災厄ととらえるところから出発しているのではないか。シオランも然りである。





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