私が意識を回復したのは、間質性肺炎を発症してからちょうど3週間後のことでした。まだ意識が朦朧とするなか、自分につきつけられた現実は、とうてい受け入れがたい厳しいものでした。
どうも自分は「寝たきり」になったらしい。気管に穴を開けたから声を出すこともできない。手足はまったく動かないし、体のあちこちにチューブがつながれている。なぜ母がついているのかもわからなかった。点滴台には何本も輸液ポンプが立ち並び、心電図や人工呼吸器が狭い無菌室内を占拠していました。行動の自由どころか、食べる自由、身体の自由までうばわれてしまったのです。
幸いスピーチ・カニューレを気管に取りつけることで会話だけはできるようになりました。音楽療法士さんと緩和ケアチームのAさんがお見舞いに来てくださったのもちょうどそのころです。私は自分でも何故かわからないほど憑かれたように音楽について熱く語りまくり、お二人とも面食らったというか、その力の入りぶりに驚いたようすでした。音楽への執着は自分でも驚くほど深いものがあったのです。
廃用症候群で完全介護となった我が身にとって、自分の自由になることは考えることと、音楽をきくことしかない。このまま死んでいくにしても、最後まで人間らしくありたかった。体はぜんぶ他人の世話になっても、心とアタマだけは誰の手にもわたさないという、やせ我慢というか、意地がありました。自分の頭で考え、言葉にして表現するのはとてもしんどいけれど、それ以上に生きている実感をもたらしてくれる。爪は剥がれ落ち、ギターを弾く握力が奪われても、まだまだできることはあるんじゃないか。
このとき「音楽」というものが、それまで考えていたよりも自分にとってかなり切実で本質的なものであることを悟りました。自分がもういちど生きはじめるため、もういちど家に帰るために音楽療法をやり直してみようと決心したのです。





言語と同様に、いかなる民族においても音楽の無い民族がいないことが不思議です。
言語においては、科学的に実証はされていませんがチョムスキーの生成文法という考え方に得心しています。
きっと、音楽も遺伝的形質としてヒトは取得しているのだと思います。
なんのためだろう? 進化が合目的的ではないと学者は言います。つまり、欲しいとか努力するから進化するわけではない。
手に入ったから使う というのが進化だそうです。となると、ヒトにとって音楽は、少なくとも種の保存からして理にかなった形質なのだと考えていますが、やっぱり生命への希求に直結していますよね。
小生も音楽を生命体のひとつと考えております。むしろ人間という移動する種を利用して地球のあらゆるところに繁殖しているといいますか。お米とか小麦とか、家畜も原種は滅びましたけど人間とともに生きのびた種をぼくたちは食べたりしています。音楽と人間は共生関係にあると思います。