「宗教」という言葉に、多くの日本人がマイナスイメージを持っている。何か怪しいものとして敬遠している。ほんとうに勿体ない話である。
そういう自分の過去を思い起こしても、宗教にまるで縁のない生活をしていた。小学校のころは猟犬のごとく科学図鑑にかぶりつき、白亜のロボットや宇宙船が、未来社会において科学の勝利を高らかに宣言する光景を夢想して過ごしていた。
ちょうどテレビでは「マジンガーZ」が流行りだしたころで、「宇宙合金Z」や「光子力研究所」といったモノモノしい響きは、イタイケな小学生の心をつかんではなさなかった。それいらいロボット・デザインを描きためるのが日課となり、友達とカッコよさを競いあった。
そんな子供時代をすごしたから、中学・高校もバリバリの「科学少年」だった。おそらく中学のころテレビでみたカール・セーガンの「コスモス」が強烈な通過儀礼になったのだと思う。とくに、十七世紀オランダの科学者、クリスチャン・ホイヘンスの「わたしの宗教は科学である」という言葉に、心底カッコイーと思ったものだ。
ガリレオやケプラーのラディカルな生きざまに魅せられていた当時の自分にとって、宗教は科学者を迷信というムチでいじめる、無知の象徴として映ったのを記憶している。もちろん科学技術がもたらした悲惨な事故や公害問題を知らなかったわけではない。それでも「科学の進歩のためには、多少の犠牲もしかたのないことだ」と本気で考えていたのである。
「科学は学にあらず」という言葉に出会ったのは大学になってからだった。東洋で「学」といえば、もともと万学というか、生命から、宇宙から、すべてを統括する根本原理をさぐるものだった。「易」はその代表であろう。そもそも「学」は「科」に分割できないものなのだ。もし「科」でもって宇宙を分割していくなら、
ブッダやマハーヴィーラや、老子の肉体や死骸や衣を取り出して、コマギレにして店頭に並べて売るようなコッケイなコト(桜沢如一『東洋医学の哲学』)
になってしまう。自分の「学」をみつけねばならない。そのときから宗教の旅がはじまった。
これは多くの科学少年がいつかは味わう挫折なのだろう。ちかごろ新興宗教に入信していく理系の学生たちをみるにつけ、彼らのたどった思考の道筋がわかるだけに、やるせない思いを強くするのである。
こうして、宗教を無知のシンボルと公言していた自分がインドくんだりまで行ってきて、ジャイナのWEBサイトをせっせと更新している。確かに宗教は無知だ。しかし、それは「知ある無知」(ニコラウス・クザーヌス)だったのだ。
そして現在はどうかというと、宗教は科学であり哲学であり、たがいが三つ葉のように支えあっていることもわかった。だからアインシュタインが語った次の言葉も、いまなら心にスッと響く。
宗教のない科学は足萎えです。科学のない宗教は盲人です
(2002.11.22 ジャイナ日記より転載)





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