幸福論と名のついた書物はたくさんあるけれども、個人的にいちばん好きなのがアリストテレスの『ニコマコス倫理学』である。表題に「幸福」の文字がないせいもあって、はためにはなかなか気づいてもらえないのであるが、この本は全編にわたり幸福という、いってみればかなり曖昧な概念にたいしてしっかりとした土台をあたえようと、アリストテレスがしゃかりきになって喋りまくる姿がとても熱いのである。
なかでも第十巻8章(1178b)のくだりは、素朴でありながら妙に説得力がある。うまく説明できるかまったく自信がないけれども、単に書きたいから書くことにする。
人間の幸福としてもっとも確かなのは、神々の生活をまねることであるという。なぜなら、神々こそ、いちばん幸福な暮らしをしている代表のようなもので、神をお手本にすれば、最高の幸せが何たるかよくわかるはずだという。
それでは、神々にはどんな生活がふさわしいであろうか。神が毎日忙しく商取引をするとか、危険をかえりみず勇気をもって冒険するとか、お金をあつかったりしているのでは誰しもおかしいと思うであろう。同様に、情に篤かったり、また禁欲的であったりするのも、やっぱり神さまみたいな最高にイケてる連中を褒めるネタにしてはずいぶん的はずれなことであろう。
じゃあ神さまは何もせず、毎日寝てばかりいるのだろうか。インドの神サマのなかにはこういう方もいたりするけれども、やはりふつうにいって神サマには「目を開けて」いてほしいと誰しも感じるにちがいない。
かといって、前述のように、神サマが毎日せっせと何かに勤しんでいるというもの滑稽である。それでは、どんな活動が神にふさわしい(そうであってほしい)とわれわれは考えるであろうか。ここでアリストテレスは、観想(テオーリア)的活動をもってくるのである。
観想というのは、別にこむずかしい顔をして冥想・黙想にふけるなどという、世俗一般のイメージとはちょっと違っていて、要するに「ただ対象をありのままに見る」ということである。キリスト教っぽく言いかえるならば、「この世を全的に愛すること」であり、あらゆるものが、あるがままの姿であることに深い喜びをおぼえるような、静かな「まなざし」のことである。
自分の愛する人であれ、子どもであれ、イヌであれ、別に彼らが完全な存在だから愛するということはないであろう。変なところや、欠けているところが丸見えだけれども、それでも愛おしくてしかたがない、いつまでも見つめていたいという気持ちは誰にだってある。それが「観想」なんだといえば、より身近に感じてもらえるのではないだろうか。一般に観想という言葉からイメージされる僧侶や修道士のばあい、その対象が神だというだけで、行為そのものにはまったく違いがない。
日本にも「もののあはれ」という言葉がある。桜の花びらがほろほろと散っていくのを見て、「ああ、はれ」と思う心情も、言いかたこそちがえ、観想と相通じるものがある。どちらも、思考や判断をまじえず、ただ目のまえの現象を全的に受けいれているからである。
アリストテレスは、これを知性(ヌース)による働きだと考えたようである。この知性こそ、人間に宿る神性であり、この知性に根ざした生活こそ、もっとも幸福な生活だということになる(同時に、神に近い生活でもある)。だから、究極の幸福は、観想的活動にあるというわけである。
何より、観想は何かのためにするものではなく、それ自体が大きな喜びをもたらす。よって、幸福というものも、何かを成し遂げればすぐさま手に入るということではなくて、いかにこの観想的な、いってみれば「ゆとり」を持つことができるかが論点になってくる。
ここで、ゆとりという言葉を使ったが、アリストテレスの言葉でいえば余暇(スコレー)となる。これは休息(アナパウシス)や気晴らし(パイディア)、ましてや仕事(アスコリア)ともまったく別次元のものであり、これが観想的生活の基礎となる。西洋においては、これが文化の基礎になっていくわけである。
われわれがひごろ考えている余暇のイメージからすると、えっ? っていう感じで、むしろ休息や気晴らし、自由時間のほうが余暇にピッタリとはまる。しかし、アリストテレスにとっては、そのいずれもが余暇とは似て非なるものである。
現代余暇学が、アリストテレスの再評価から出発しているのも、余暇の概念そのものを再考しようとする動きからいえば当然であろう。
アリストテレスの話していることがやっと心から実感できたのが、去年の暮れあたり。だから今年は何をするにしても、この観想的というところをいちばん意識している。しかし、自分が意識するほどテオーリアは遠ざかっていくばかりで、むしろ忘れたころにふと向こうからやってくる。なるほど神の領域の話だと思った。
観想というのは、ただ単純に「いただく」もののようである。





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