「余暇」について考えこむのが大好きだ。このテーマとは長いことつきあっているが、全く飽きることがない。
そもそも余暇をテーマにした本は数が少ないし、あっても企業経営と結びついたビジネスマン向けの著書が圧倒的に多かった(*)。遊びや余暇を専門とする研究者も我が国ではまだまだ少数である。先日も出版社の広告宣伝の方々と飲んだ折り、企画として「余暇」なんかどうか、と話をふってみたが、おしなべて不評であった。余暇なんて時代遅れの古びたネタであり、いまさら論じる価値のない「死語」だと指摘する方もおられた。
なるほど余暇という言葉自体に新鮮味をおぼえる人は稀であろう。この言葉を聞くとレジャーやリクリエーション、リフレッシュといった表現に代表される「週末の過ごし方」を連想するのが大方である。余暇とは、月曜日からまた元気に出勤するための休憩時間にすぎず、あくまで勤労という主人の忠実なる下僕というわけである。
このような定義になぜだか嫌悪感を持っていたので、その逆を証明するような事実をさがし歩いていた。つまり、余暇の余りこそが労働であり、労働が消滅しても余暇は無傷で生き残るという見通しである。さらに贅沢をいうならば、余暇とは人生そのものであり、それ以外は無意味な愚物だと主張する立場があったらいいなと思っていた。
この世に生まれ落ちてから死ぬ瞬間まで、目の前に存在する広大な時間的空間。それが余暇である。まずはじめに余暇があり、それを労働や家庭的社会的義務がついばんでいくのであって、労働という対概念がなくては存し得ないということではない....(続く)
(*)薗田碩哉著『余暇学への招待 』の巻末に、余暇と遊びに関する膨大な著作リストが掲載されていた。反省。





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